天が家族になってからのこと

天が家に来てくれたのが2/23。天に初めてあったのが1/30。今日は3/13。雪がたくさんとけた暖かい一日。

天と出会ってからまだ1ヶ月半。ちょっと前のことのように思えるが、動画を見てみると天の姿は大きく変わっていた。天は確実に成長していて自分の記憶の不確かさに驚いてしまう。認識は日々を補正して、雛形に現実を補正して当てはめる。そうやってスムーズに生きていくことができる分、日々がのっぺらぼうになってしまうことがある。ずいぶん前のことのように思えるし、ここまで姿形が変わっているとは思わなかった。まだまだ小さいと思っていた天だが、ちゃくちゃくと成犬へと成長している。

少しでもその片鱗を記録できたのは嬉しい。毎日同じ天の姿を撮影して、毎日同じような動画を編集している。でも、比べてみると着実に未来を歩き続けている。その姿を記録しているということは、同じ時間を歩み共有しているということ。そう考えるとなんだかとても嬉しくなる。

2/23から3/12まであなたは何をしていただろうか?

2月の末に天が家に来てからのことをまとめ終わってふとそんなことを思った。

歳を取れば取るほど、昨日あったことは一昨日あったことと混じり合い、時間は歴史の中にとけてしまう。子どもの頃、一喜一憂していた毎日は、いずか昨日の続きとしての今日であり、明日になっていく。毎日はもっと濃密で驚きに満ちており、昨日と同じ時間はない。だが、歳をとるごとにある程度予想がつく毎日を過ごしながら時間を消費して、一歩一歩死に近づいていく生き方へと自覚なく変化していく。それはもはや成長とはいえず、少しネガティブな表現となるだろう。

死に向かって生きるのが人間の存在である、と言った人がいたようないなかったような。有限性をどこか他人事のように理解しながら、社会的・状況的な使命を引き受けて時が流れてゆく。

犬のことを考えているようで、考えているのは自分のことなのかもしれない。天のおかげで、天を擬人化して自分のことを考えているような気がしてきた。ペットは自分の鏡。子どもがある種のそういった存在であるのと同様に、ペットも自分を鏡のように映す存在として機能する。機能するというかそのように認識する。そういった存在としても犬は人のパートナーとして長い歴史を歩んできたのだろう。

天を頼りにして、これから少しだけ世界を別の角度から体験できることができるかもしれない。天にとっては迷惑な話かもしれないが、天のあとをついて世界を知るための営みを前よりも少しだけ違う角度から試してみよう。

人は最も近い自分という存在に日々触れていながらも、最も理解できていない。

天のお導きを頼りに世界を体験しよう。その手触りから伝わる世界の片鱗は日常の彩度を少しだけ高めてくれるはずだ。